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光円こうえんがつくった道

 今から、およそ150年前のことです。大三島おおみしま肥海ひがい金剛寺こんごうじだいせい住職じゅうしょく光円という和尚おしょうさんがやって来ました。

 光円は、年は31才で、りっぱな学問がくもんをおさめている上に、とても心のやさしい人でした。当時の村は松山まつやまのとのさまがおさめていましたが、村の家はわずかでした。光円和尚は、昼も夜もこの村がゆたかな村になることを考えつづけました。

 そこで考えついたのが、道路どうろをつくり、はしをかけることでした。その当時の道は、人一人通るのがやっとで、今のような広い道路はありませんでした。

 荷物にもつは、米、麦、大豆だいず、たきぎなどでしたが、かたにかついだり、馬のにのせたりしてはこんでいたので、たいへんなことでした。

 まず、目をつけたのは、肥海と大見おおみ明日あけび宮浦みやうらにつなぐ海岸かいがんの道路でした。そのころの海岸には道はなく、村人たちはくるしい山道をこえて行き来していました。海岸も通れないことはないのですが、岩づたいに行かなけれなならないので、たいへんきけんなことでした。中には、海にちれなくなった人までいました。

  • 金剛寺金剛寺
  • 大三島町肥海大三島町肥海

 光円は、道明どうみょうまで毎日出かけていろいろと調しらべました。そして、とうとう工事こうじりかかりました。かたい岩なので、仕事しごとはなかなかはかどりませんでした。光円は、休むことなくみんなの先頭に立ってはたらき続けました。

 そして、半年間、努力どりょくのかいあってとてもりっぱな道路ができあがリました。1863年8月のことでした。石がきがついたはば2m、長さ1500mの道路です。この道のおかげで、村の人たちのくらしも、だんだんゆたかになってきました。

 光円は、70オでなくなりましたが、今でも人々にしたわれています。

  • 光円がつくった道光円がつくった道の今の様子
  • 光円和尚光円和尚