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今治じてん > 今治のくらし > きょう土の伝統文化と先人たち > ため池や道路をつくる > 産業の発てんにつくす 阿部平助

産業さんぎょうはってんにつくす 阿部あべ平助へいすけ

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 今治いまばり市は、今や日本一のタオルの産地に成長せいちょうしました。今から120年ほど前に、この今治の地ではじめてタオルの生産をはじめた人が阿部平助です。

 平助と綿織物めんおりものとの最初さいしょの出会いは、綿替木綿商わたがえもめんしょうとしてでした。1890年、平助は綿ネルをり始めました。そのころ、今治の綿業めんぎょうがだんだんおとろえていく様子ようすを見た平助は、白木綿しろもめんわる新しい織物はないものかと織物の産地をたずねて歩きました。たまたま大阪おおさかへ出ちょうしたときに、大阪市内の小売店こうりてんで初めてタオルにめぐり会いました。平助は、初めてタオルを手にし、今までの綿織物のはだざわりとはまったくちがうかんしょくにおどろきました。そして、平助はタオルを買って帰り、弟の利三郎りさぶろうと力を合わせ、タオルの織り方の研究けんきゅうり組みました。研究をかさねた結果けっか泉州せんしゅう(今の大阪)から「ち出し織機しょっき」という手織機ておりきを4台買ってかいぞうし、タオルを織りました。1894年12月のことでした。これが今治で織られた最初のタオルでした。

 つぎの年には、織機を10台にふやしましたが、不幸ふこうにも工場は火事かじにあい、全部ぜんぶけてしまいました。平助はそのような苦労くろうにもけず、今度こんどは織機を30台そなえた新しい工場をつくり、ふたたびタオルのせいぞうを始めました。しかし、織機は手動式しゅどうしきで、改ぞうしたものであったため、ずい分苦労しました。せいのうもわるく、平助にとって満足まんぞくのいくものではありませんでした。それでも平助は、出ちょうのたびに熱心ねっしんにいろいろな人の意見いけんを聞いて、それを取り入れながらタオルの生産をつづけました。1916年には,綿ネルの生産に力を入れることになったため、残念ざんねんながらタオルの生産をやめることになりました。しかし、その後も平助の努力どりょくを多くの人がけつぎ,今治はタオルのまちとして、発てんしました。

※綿替木綿商
のついた綿を農家のうかにわたし、その綿からつくった白木綿の半分を受け取り、それを売る仕事しごと

※綿ネル
冬物の衣服いふくなどに使つかわれ、表面ひょうめんがふわふわしていて、あたたかいぬの

※綿業
綿からつくった糸で布を織ったり、品物しなものをつくったりする仕事をまとめた言い方。